FC2ブログ

松本サリン事件

2016.07.23.Sat.19:54

1994年(平成6年)6月27日午後10時40分ころ、長野県松本市北深志(ふかし)1丁目に住む会社員の河野義行(こうのよしゆき/当時44歳)は妻の澄子(当時44歳)と一緒に自宅1階南側の居間でテレビを観ていたが、澄子が突然、気分が悪いと言い出した。

河野は心配して、横になるように言ったとき、自宅の北側の犬小屋の辺りで物音がした。
不審に思って屋外に出ると、2匹の愛犬が倒れて全身を痙攣させていた。
河野はとっさに、誰かが敷地内に毒を投げ込んだのではないかと思った。
この悪質な悪戯を警察に知らせようと、居間に戻ると、澄子はあお向けに倒れ、全身を痙攣させていた。
驚愕した河野はすぐに119番通報した。

午後11時14分ころ、救急隊員が河野宅に到着したときには、河野と長女も苦しんでいて、救急車は家族3人を収容、病院へ搬送した。

午後11時48分、「開智ハイツ」の住人から、変な臭いがするという119番通報が入った。


翌28日午前0時5分、「松本レックスハイツ」の住人から、友人が気分が悪いと言っているという通報があり、近くの民家からも、気分が悪い、救急車を頼む、という電話が入った。
午前4時15分、松本警察署は、「河野家の他、付近住民から異臭のため気分が悪いという届け出が続出した。
死者複数が出ている模様」と事件の第一報を発表した。

午前7時、長野県警は松本署に「松本市における死傷者多数をともなう中毒事故捜査本部」を設置、捜査員310人体制で捜査を開始した。

午前11時、県衛生公害研究所と松本保健所の職員が現場付近の池の水などを採取した。

夕方、捜査本部は「被疑者不詳の殺人容疑」で、河野宅を家宅捜索、薬品類などを押収した。
この集団ガス中毒事件は、死者7人(マンションで5人が死亡、病院に運ぶ途中の救急車の中で2人が死亡)、重軽傷者144人を出す大惨事となった。

松本測候所の観測によれば、この日の夜の松本市の気温は20.4度、小雨が降っており、湿度は95パーセント、冷房を入れるほどではないが、むしむしして窓を開けて寝ている人が多かった。
風は南西から北東に向けて吹いていたが、毎秒0.5メートルというわずかなものだった。
被害の範囲は半径70メートルに及んだが、死亡した人のすべてが2階以上の住人だった。

7月3日午前9時、捜査本部は、記者会見で、「サリンと推定される物質を検出した」と発表した。
ここで、マスコミはこの事件を「松本サリン事件」と名付けた。

サリンは、第一通報者の河野宅の周辺6ヶ所から検出された。
捜査本部は、定石的捜査として、河野から事情聴取を行った。

同日夜、河野の弁護士は、本人とのやりとりを録音したテープを公開、事件との関与を強く否定した。
だが、これ以降、長期間、河野は警察やマスコミからも白眼視され続けることになる。

まず、警察はポリグラフを取った。
反応が出たと言われたが、記録は見せてくれなかった。
取調官は、河野が調合を間違えたと話しているのを聞いた人がいると言った。
河野が、その本人に会わせろ、と要求すると、人権上、それはできないと逃げられた。
お前がやったんだろう、正直に吐け、と嚇す刑事もいた。

7月7日ころから、河野を犯人扱いする新聞記事、テレビ報道が始まった。

7月30日、河野が退院。
弁護士事務所で記者会見後、捜査本部は、また、事情聴取を行った。
翌日も聴取は続いた。

8月4日、捜査本部は、河野が体調が悪化したのを認め、しばらく聴取を見合わせると発表した。
だが、結局、河野は翌1995年(平成7年)3月20日の地下鉄サリン事件(12人死亡、14人重傷)が発生するまで疑惑の人物とされた。

オウム真理教(現・アレフ)は土地問題の訴訟で、7月19日に長野地裁松本支部で予定されていた判決で敗訴の可能性が高いことと、製造できたサリンの効力テストのために、教祖の松本智津夫(教祖名・麻原彰晃/当時39歳)が裁判官や反対住民への報復を計画し信者に命じて実行したとされている。

事件当日の6月27日午後4時ころ、実行部隊の村井秀夫(当時35歳)、新実智光(当時30歳)、遠藤誠一(当時34歳)、端本悟(当時27歳)、中村昇(当時27歳)、富田隆(当時36歳)、中川智正(当時31歳)の7人が、山梨県上九一色村の第7サティアンから噴霧器をセットした2トントラックとワゴン車の2台の車に分乗して出発した。
2台の車は高速道路を使うと記録が残るおそれがあるので、一般道を走行して松本市へ向かった。
その途中、車の中で医師の中川が説明した。

「これから撒くガスを吸うと、視界が暗くなり、呼吸が困難になって、頭痛、腹痛、下痢などの症状が出ます。そういうときは治療薬がありますので私に言ってください。非常に危険で、死ぬ可能性があります」

さらに、諏訪市で休憩していたとき、中川が「予防薬だから飲んでください」と「メスチノン」を配り、その場で全員が服用した。

そのあと、岡谷市のドライブインで休憩していたとき、すでに日が暮れかかっていた。
このままいけば、到着は夜になり、攻撃目標にしていた裁判所に人がいなくなる。
そう判断した新実が村井に住宅地図を示しながら、「裁判所から400メートル離れたところに裁判官宿舎があるのでそこに変更しましょう」と相談した結果、村井は承諾した。

午後10時前ころ、噴霧車とワゴン車は裁判官宿舎から190メートル離れたスーパーの駐車場に入り、2台の車に偽造ナンバープレートを取り付けた。
次に中川が「防毒マスク」を全員に配り、解毒剤「パム」をアンプルから注射器に吸引し、いつでも注射できるよう準備を整えた。

そこへサリンを噴霧する場所を探していた村井が戻り、中川らに指示して、裁判官宿舎まで37メートル、河野義行宅の敷地に隣接する駐車場に2台の車を止め、午後10時40分ころから約10分間、およそ12リットルのサリン(純度70%)を大型送風機で噴射した。

この事件では松本智津夫と実行部隊の合わせて8人が殺人と殺人未遂罪で起訴され、サリンや噴霧装置を製造したとされる土谷正実(当時29歳)、林泰男(当時36歳)ら6人も殺人幇助罪に問われた。

2008年(平成20年)8月5日、河野の妻の澄子が亡くなった。
60歳だった。
事件発生から14年。
澄子は事件の後遺症で意識が戻らないままだったが、容疑者扱いを受ける苦難を乗り越えてきた河野は「家族のために生きてくれた」との談話を公表した。
オウム真理教事件の被害者らからも冥福を祈る声が相次いだ。

12月18日、「オウム真理教犯罪被害者等を救済するための給付金の支給に関する法律」(オウム犯罪被害者救済法)が施行され、地下鉄サリン事件などオウム真理教による8つの事件により亡くなられた方のご遺族、障害が残った方、傷病を負った方に対して給付金が支給されることになった。
被害の程度に応じて10万~3000万円が給付される。

2009年(平成21年)1月6日、河野がオウム真理教被害者救済法に基づき、前年8月に亡くなった妻・澄子と次女への給付金を長野県警松本署で申請した。
河野自身は前年12月末に県警本部で申請したという。

関連記事
コメント
No title
「無限回廊」の管理人のboroです。

記事の転載を許可した覚えがないので削除してください。

宜しくお願いします。

管理者のみに表示